リレートーク

 全障研兵庫支部が発行している支部ニュース「はぁとブリッジ」より、

 リレートークに寄せられた原稿を毎月更新していきます。

城の崎にて                (3月号より)

 

 先日,家族4人で城崎温泉に行ってきました。実は,家族旅行は2000年に静岡から関西に戻ってから初めてで,子どもたちが小学生時代ぶりのこと。子どもたちが独立しつつあるなか,4名そろっての家族旅行はなかなか難しいだろうということで提案してくれました(心遣いに感謝するとともに,私自身がわが親に何もしないまま,介護時期に入ってしまったことを反省)。

 これまた十数年ぶりに家族4人向かい合わせで電車に乗り,初の城崎。外湯巡りをして,思わず無口になる蟹三昧・・・と,たぶんお決まりコースで過ごしましたが,「蟹のここがうまい」などというたわいもない会話が,貴重な時間の印でした。

 宿は超「昭和」な感じで,仲居さんたちの山陰独特のイントネーションは,私としては懐かしさ満載でした。不思議なことに気持ちは,我が子の現在の年齢よりさらに若い高校時代に逆行。頭でっかちな木下青年は,小説はやはり白樺派だと,志賀直哉も読んだ記憶もあります。『城の崎にて』も読みましたが,療養のため温泉に滞在するというシチュエーションからして,「現代の」高校生にとっては謎でした。ネズミやイモリの死を通して,自分の人生を温泉地で考える思索も,きっと意味不明だったと思います。

 志賀が30代前半の作品だったようですが,今ならもう少し想像できるでしょうか。育てられる者から育てる者へと人生を重ね,老いを見守る経験をするなかで,これまでとは違った感じ方ができるといいなあと思います。

 

 

木下孝司(副支部長)

支部長 新年のあいさつ    (2016年1月号より)

新年あけましておめでとうございます。会員のみなさん、今年もよろしくお願いします。

昨年は何と言っても最大の出来事は、「戦争法案」が強行採決されるという事態に至ったことです。

戦後70年の歴史においてはじめて海外で武力行使を可能にする法律が国会を通過したということです。沖縄の辺野古に新基地を作るための埋め立て承認取り消し訴訟に対し、政権は逆に代執行を求め提訴し埋め立てを強行するなど全面対決の様相を示しています。世界的にもフランスでのテロをはじめ各国でのテロの拡散、シリアへの空爆の激化と戦争は今や現実の問題です。

私たちは、戦争は国民の人権も生命も奪うということを知っています。障害者問題にかかわる者として平和でないと障害者の人権が守れないことをよく知っています。それだけに、戦争法案を廃案に持ち込む運動を、昨年の国民的な世論・大運動に確信をもって進めていきましょう。

 

 さて、支部活動のことにふれますが、支部も2017年に創立50周年を迎えます。今年はこの50年を支部としてふりかえり、これからの支部活動の展望を開く年にしたいと思っています。

1967年夏に支部が結成され、事務局を中心に50年に渡り活動を継続してきたことは誇るべきことです。中でも支部ニュースを毎月定期発行(阪神淡路大震災の時に1回だけ発行できず)し続けてきたエネルギーは賞賛に値すると思います。その活動のまとめとして50年誌の発刊を今年度の大きな課題にしています。兵庫の実践、各分野の実践を中心にまとめていきます。ご協力をお願いします。

  

私の仕事にしているエコールKOBE5年が経過しました。青年の学びの場が急速に広がっていて、18歳~20歳前後の時期に学ぶ・遊ぶ・体験する・友だちをつくるという青春を謳歌する意義や価値が理解されてきています。一方で県は特別支援学校卒業後の就職率がワースト2位ということで、高等部教育にビルクリーニングや喫茶サービスの技能検定を導入し、キャリア教育という名のもとに偏った職業教育を押し付けてきています。まさに特別支援教育の実践をめぐるせめぎあいの状況です。福祉・教育の全ての分野で自助・共助・公助の考えで施策が出され、対決点が明確になっています。  

私たちはこうした中での「立ち位置」という問題を考えないといけません。「立ち位置」とは「立場」とは違い、自分の意思が明確に反映します。つまり、たとえば、戦争に対して反対する、福祉・教育の自助・共助・公助の押し付けに反対する、職業教育に偏ったキャリア教育に反対する意思を明確にすることです。しかし、それはいろんな考えや立場の人に対決することではないと思います。そういう人とも連帯できるところは大いに連帯し、一緒に考えていきましょう。人間として連携、連帯する広い視点、壁を作らない付き合いも大事です。つまり、軸足をしっかりさせていろんな状況にもいろんな組織、人間関係にも対応できる柔軟性が求められているように思います。

 

 ついでにいうならば、仕事でも支部の活動でも私の立場を考える時、それなりの「立ち位置」をしっかりしていき、人をつなぐ、次世代につなぐという役割を果たす年にしたいと思います。               (支部長 河南勝)

「異質」を楽しむ子どもたち      (11月号より)

 アメリカで,週に数回は,幼稚園や小学校に行って,子どもたちと接しています。そのなかで,いわゆる「ええとこ(エリート)」の子どもたちに感動することがたびたびあります。その1つに,自分と異なる存在に対する猛烈な好奇心があります。

娘の学校には,アジア人はいません。娘だけです。ですので,お菓子,お弁当,遊び道具はアメリカの子どもたちと違う場合が多いです。当然,言葉も違います。彼らにとって,娘や娘の持ち物は,まぎれもなく「異質」の存在です。

学校に行く前は,娘に対する差別や無関心を心配していました。しかし,全くの杞憂でした。

折り紙を持ってくると,子どもたちは猛烈な関心を示します。自ら500枚以上!の大量の折り紙を持参して,折り方を教えてもらいたがる女の子がいます。また,日本語に関心を示して,「いただきます」「おはよう」「さよなら」など日本の言葉をどんどん吸収していく男の子もいます。お弁当を持ってくると,「これはなに?SUSHI?」など質問の嵐です。数日後,「ママに頼んで日本のランチにしてもらったの」という子どももいました。もちろん,モノだけでなく,娘にも関心を示します。「その髪型。素敵ね」と言ってなんとか友達になろうとする女の子もいてくれます。さらに「ゼルダの伝説」のTシャツを着て,娘と仲良くなりたがる子どももいました(しかし,娘はゼルダを知らないという笑)。言葉は,大きな壁ではないようです。

日本では,ここまで異質なものに純粋に知的好奇心を示し,それをすぐさま取り入れる子どもは,多くないと思います。もし白人や黒人の子どもがクラスに1人来たら,多くの子どもは戸惑ってしまうのではないでしょうか。言葉も通じないし,なんだか違うものを食べているし…。もちろん,日本の子どもたちはきっとそういう子に優しくするでしょう。でも,異質なものに好奇心を示し,ましてや,すぐに自分の中に取りこむ子どもは,少ないように思います。

★★★★★

「インクルーシブ教育」や「多様性diversity」が,流行っています。それ自体はとても大事です。でも,「どうやって一緒に学ぶか」という大人目線での議論が多いように思います。子ども目線で見た場合,そして,アメリカの子どもたちに学べば,「異質」なものを「なんだか素敵」「もっと知りたい」「自分もやってみたい」と楽しめるような環境・雰囲気を創っていくのかがより重要になると感じました。

 

「多様性」そのものが大事というよりは,「多様性」を楽しむことが大事ですよね。子どもたちから大事な問いをもらいました。   (副支部長 赤木和重)

スポーツしてますか   (10月号より)

 

 最近、車に乗っていて、気になってしかたないのが、草です。

 通勤は、田んぼや山の中の道なので、周りの田んぼを見て「あぜの草が伸びているな~」とか「お!きれいに刈っているな」と気になります。加古川の堤防を走っている時は、きれいに刈られた斜面を見ると、うっとりしてしまいます。

 

 岡山の田舎に帰って、私も草刈りをしています。草刈り機をブンブン鳴らして、挑戦しています。田舎は、山の上なので、ほとんど斜面です。斜面刈りに挑戦中です。

 なぜ、草刈りを、「挑戦」と言うかといえば、私と近所のおじさんの会話を聞いてください。

 

「草刈り 大変ですね。今年は草が早く伸びてないですか?」

「草刈りは、楽しいよ。」

「え! 楽しいですか?」

「草刈りは、モータースポーツやからな。」

「・・・・・」

 

「草刈りは、モータースポーツである」というおじさんの言葉に、「やられた」と思いました。それ以来、私もモータースポーツと自分に言い聞かせています。スポーツとして対戦する相手は、もちろん草です。自然です。大自然を相手のモータースポーツですから、大自然に対する「挑戦者」なのです。


 私が気になっているのは、草だけでなく、「挑戦者たち」だと気づきました。日本全国、いや世界各国に「挑戦者たち」、いわば同志がいるのです。そう考えると楽しくなります。

 

 さあ、スポーツの秋です。    (副支部長 原田文孝)

今を「新しい戦前にしないために」 (9月号より)

70年前のあの日もカンカン照りの暑い日だった。朝から蝉の鳴き声がいやに

うるさく感じられた。母は、「天皇陛下の大事な放送がある」といって、集

会所へ出かけたようす。昼過ぎに戻った母は「◯◯さんが、『天皇陛下が、

もういっぺんかんばれ』と言うのかと思ってたのに拍子抜けした」と言うて

た」と話していた。戦争が終わったことも、日本が負けたとも口にはしなか

ったが、母のその声が妙にはずんでいたようだった。兄2人が朝鮮と台湾に

出征、私と弟が「戦争にとられなくてすんだ」という安堵感にほっとしたの

だろうか。空襲警報が出ると各戸の入り口に「赤い旗」が垂らされ、解除に

なるとはずされる。旗の出し入れは祖母の仕事になっていた。「あしたか

ら、もう旗はいらんわ」の祖母の一言が戦争が終わったことを物語ってい

た。学校の行き帰りの防空ずきんもいらんねんな」と妙に解放された気分に

なった。

あれから70年、日本は外国と直接、戦火を交えることはなかった。日本国憲法第9条があったからである。わが国の平和は、先の大戦での300万人以上もの尊い犠牲者の上に成り立っている。「海外で戦争できる国」づくりに執念をもやす政権与党は「積極的平和主義」などと条理も論理もない言葉を垂れ流し、「殺し、殺される」戦地に若者を送り出し、米国の戦争につきあわせることがなぜ平和なのか。平和に消極も積極もない、平和の2文字で十分である。「憲法前文と9条」の平和の力を全世界に向けていっそう発展させることこそが、もっとも先駆的な「積極的」な平和主義ではないだろうか。「国民学校世代」最後の世代である私たち(193839年生)は、9条を踏み破る悪法を断じて許さない。「ミンナデ ベンキョウ ウレシイナ コクミンガッコウ イチネンセイ」―学校へあがって初めて習った歌である。歌詞とはうらはらに遊びと学びの場を奪い人間発達の基盤を根こそぎ破壞し、親子兄弟を切り裂き悲劇のどん底に落としこむ戦争を憎む。

 4月に、小学校の教え子から定年退職の挨拶の手紙をいただいた。教師になって4年目1964(東京オリンピック)、4年の学級担任だった。当時10歳の少年が還暦を迎え3月に退職されたとのこと。教職38年のうち通常学級担任5年、卒業学年担当の縁もない自分に退職の挨拶をいただくなど予想もしていなかっただけに驚き、うれしく拝見する。彼は早くに父を亡くし、働きながら夜間の大学で学び英語の教員免許を取得、38年間兵庫の高校教師を勤め、「良き同僚・生徒に恵まれ、幸福な教員生活を送ることができたと感謝のことばを述べられたあと、

  「先生のお名前は、幸が充る”ですよね。小学校卒業のとき、「みんなが幸せになる世の中をめ

  ざせ」とおっしゃいました。私の人生の恩師である津田充幸先生、子どもを愛し、平和を愛し、正義を愛してこられた先生、どうか、私たち教え子のためにもお元気でいてください」

と結ばれていた。日教組が「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンを掲げたのは1951年である。1994年村山内閣は「自衛隊の合憲を明言、日米安保体制の堅持を確認、日の丸・君が代の学校内での指導を容認」、そして翌年の日教組大会で「路線転換と称し、日の丸・君が代の棚上げ」決議する。「教え子を再び戦場に・・・・・」という教師の魂はかすんでしまった。私の教え子が戦地に向かうことはなくなったが、その子と孫たちが「銃を手にするようなことはさせないぞ」と、強く心に誓う。――今を新しい戦前にしないために。                 2015.8.15

  ●障害者の生きる権利、発達する権利は戦争を是認する体制の下では決して実現しない●

 

    ・・・・・・・全障研全国常任委員会2015.5.10)      

                            (全障研顧問 津田充幸)

「オール沖縄」から「オールジャパン」に (6月号より)

沖縄県辺野古。2年前の冬、沖縄旅行に行った際に一度どうしても見ておきたくて訪問した。ずっと泊まり込みで辺野古基地反対を訴える人たちの小屋や「民意は基地建設NO」の看板をバックに写真をとってきたが、今思えば観光気分だったなと思う。きれいな辺野古の海をぼんやり見たり、子供たちが防波堤で釣りをするのを見たりして、こんなに平和なきれいな海に「基地はいらない」という思いだけは抱いたものの、深い意味で沖縄の人の思いを理解していたのかと考えるとはずかしい。

 戦後70年が経ち、戦争法案が国会に出される情勢、辺野古基地建設に向けて強引なボーリングが進む事態の中では沖縄も日本の国として心をひとつに考える時期ではないかと思う。

 517日に沖縄で35千人が結集した「戦後70年 止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」が開催された。この大会の中で翁長知事がこんな発言をしている。『沖縄は自ら基地を提供したことは一度もございません。普天間飛行場もそれ以外の基地も、戦後、県民が収容所に収容をされ、居住場所等はじめ、銃剣とブルドーザーで強制接収をされ、基地建設がなされたわけです。自ら土地を奪っておきながら、普天間飛行場が老朽化したから、世界一危険だから、辺野古が唯一の解決策だ、沖縄が負担しろ、嫌なら沖縄が代替案を出せ。こんなことが許されるでしょうか。・・・』この発言に心が震えた。

そうなんだ、あらためて沖縄の置かれている立場、沖縄の歴史を明確にした発言だった。

 この大会の記事、ニュースを目にする前に、たまたま灰谷健次郎の「太陽の子」を読んでいた。この本から強烈なメッセージを感じ取った。「太陽の子」はふうちゃんという神戸生まれの女の子が主人公。お父さん、お母さんは沖縄出身、神戸の下町で沖縄料理の店「てだのふぁ、おきなわ亭」を開いている。店にくる常連さんたちに囲まれて明るく育ったふうちゃんだが、お父さんの病気(精神的な)に悩み、苦しむようになる。お父さんの病気の原因は何なのか?ふうちゃんは「沖縄と戦争」にそのカギがあると気付きはじめる。お父さんの心の中でだけ戦争が続いているのか?6年生のふうちゃんの純粋な心、まっすぐに沖縄の歴史に向き合う姿、大人にするどく問いかける展開にたじろぐほどの内容だった。

 本の中で、お店に来る左手のない大工のろくさんのせりふを引用させてもらう。

「この手を見なさい。よく見なさい。」「手榴弾でふっとばされた。」「敵の手榴弾ではない。わしはただの大工で兵隊ではなかった。沖縄を守りにきてくれない兵隊が私たちに死ねといった。名誉のために死ねといって手榴弾をくれた。国のためテンノウヘイカのため死ねと彼らはいった。わたしたちはかたまってその真ん中で手榴弾の信管を抜いた。」「そして、みんな死んだんだ」「ええか、この手をよく見なさい。見えないこの手をよく見なさい。この手で私は生まれたばかりの吾が子を殺した。赤ん坊の泣き声が敵にもれたら全滅だ。おまえの子どもを始末しなさい。それがみんなのためだ。国のためだーーわたしたちを守りにきた兵隊がいったんだ。沖縄の子どもたちを守りにきた兵隊がそういったんだ。みんな死んで、その兵隊が生き残った。・・・この手を見なさい。この手はもうないのに、この手はいつまでもいつまでもわしを打つ」

 ここに戦後70年経った今でも目をそむけてはいけない終戦の地上戦を繰り広げた沖縄の歴史がある。

この悲惨な地上戦で住民の4人に1人が犠牲になり、戦後27年間も米軍統治下におかれ、本土復帰してからも43年間米軍基地がある沖縄。その基地をさらに辺野古基地建設で固定化するなんて、もう許す事はできないという沖縄県民の強い思いが伝わる県民大会だった。

私たちは沖縄に連帯するために、歴史と事実を知ることから始めよう。そのことが「オール沖縄」から「オールジャパン」に世論を変えていく力になるのではと思う。

(支部長 河南勝)

     教える基本は一緒       (5月号より)

 新年度が始まって1か月、みなさんの生活も落ち着いてきたことと思います。さて、私は、この4月から1年間、家族とともにアメリカ、ニューヨーク州にあるシラキュースという街に来ています。神戸大学での在外研究という制度を利用してのものです(神戸大学、ありがとう!)。シラキュース大学で、授業研究や障害児教育を研究します。

 とはいえ、この1か月は、研究どころではなく、生活を立ち上げることに忙殺されておりました。銀行口座の開設や車の購入にはじまり、「寒いので毛布が必要」「あぁ、お米がなくなるぅ!」など生活(というより生きること)に必要なことを進めておりました。毎日毎日、今日も1日、生きられた~という感覚を味わっています(ちょっとおおげさかな?)。

 さて、そんななかでも、一番の重要なのは、愛娘の小学校です。予防接種など、いくつかの準備を経て、無事に地元の小学校に入学できることになりました。緊張の初日です。正門前で娘の横顔を見ると、緊張を通り越して、能面のような顔になっています。娘はアメリカに来た最初は、スーパーに行くだけでも、動けなくなってしまっていました。何もかもが違う環境に、心と身体が凍ってしまうのでしょう。もうよくわかります。

 そのまま職員室に入ります。出迎えてくれた教頭と簡単な挨拶を済ませたあと、ESLの先生(母語が英語でない子どもたちに英語を教える先生)が対応してくれました。若い先生で明るく、でも、アメリカらしい(?)大げさな明るさではなく、しとやかに、挨拶をしてくれました。でも、娘は能面のまま。ぬぉ、私はもうパニック。拙い英語で「娘は英語が全然できません。それからとっても内気です。それから…」としゃべると、穏やかに、「今日は教えることはありませんよ。2年生の教室はにぎやかでしょうし、今日は、静かなESLの教室で私が見ます。話さなくていいですから、そう娘さんに伝えてください」と言いました。先生なのに「教えない」、その一言を聞いて安心・信頼できました。私も平常心を取り戻し、「彼女が好きなのは絵を描くことなんです」と言うと、「わかりました。一緒に絵を描きましょう」と言ってくれました。

 その日、娘は「楽しかった」との一言。そし手、先生が夕方、メールをくれました。「娘さんはいい1日を過ごしたと思いますよ。教室で、一緒に絵を描いて過ごしました。彼女はとっても素敵な絵を描きますね!それから、彼女の2年生のクラスにもあいさつに言って、言葉のお勉強もしましたよ。ちょっと話してくれました!」とのこと。これから困難はたくさんあると思うけど、でも、涙がたくさん出ます。

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 アメリカでも基本は同じでした。子どもの今の気持ちをつかみ、そこから、子どもの好きなことを軸に教え・学びを立ち上げていく。安心できる空間時間と自分の好きなことをわかってくる人がいる。だからこそ、娘は2年生の教室に踏み込み、言葉を話す力を出せたのでしょう。

 アメリカで学びたいのはこういうことなのかもと感じました。多くの違い(とそれに伴う困難)は山ほどあります。でも、その違いを学びつつ、そのちがいを越えたところにある発達心理学や障害児教育学における「同じ」部分を深めることが、私の1年間のチャレンジなのかもしれません。

 みなさんにとっての新年度のチャレンジは何ですか?    

                                (副支部長 赤木和重)